メルカリのドラマと、身内に冷たい甘え
メルカリを初めて早2か月になるが、種々のドラマが生まれようとしている。
私にとって不要と思ったモノが、他の人にとっての必要なモノとなる。メルカリの魅力は、金銭的なものはもちろんであるが(リサイクルショップや古本屋に売るよりも自由度が高い)、不要物に新たな息吹が芽生えることであろうか。ちなみに下の写真は、初めて売れたスピーカーである。
メルカリを知る前は、ひどいときにはそのままごみとして捨てていた。不要物となったモノたちは、すなわち死を意味していた時期もあった。私が銀塩カメラの死を意識したころ、ヤシカ・コンタックスのカメラとレンズを、カメラ屋に売ってしまった。このことを今更ながら後悔している。カメラ用品は、そのモノ事態が投機対象になる場合もあり、売買がビジネスライクであることが多く、情報弱者(すなわち売り手)が、あまり良い思いをしないことを経験している。まさか今更ながら、銀塩時代のコンタックスのレンズが、デジカメ時代にニーズが増すことを予測していなかった。いわゆるフルサイズのデジカメが、ここまで早く一般化することを予想していなかった。話を戻すと、メルカリによって得た一期一会のやりとりは、とてもビジネスライクなものであるが、時々、購入した品物が到着したときに、とてもうれしかったといったレポートをいただくこともあり、ささやかなドラマを感じる。この人々とは、お互いの名前や住所を知らず、コンビニを通して発送手配を行っているので、ハンドル名やアイコン、取り交わす文面が、彼ら、彼女らを知る唯一の情報である。そしてメルカリの相互評価システムは現代的というか、中華的な発想で、人々は評価で傷がつくことを潜在意識下で常に気にしているので、品行方正な商取引を行おうとしている。
一方で、お互いを(いやというほど)知り尽くしている身内には、実は冷たいことも多いと感じている。血のつながった家族、配偶者、親戚、友人、同僚、社員等、これらは、「身内」に甘えている証拠なのであろうか?目に見えない人々とのコミュニティーで、疲れた精神をいやすための甘えなのだろうか?
そんなこともあり、メルカリでコミュニケートする相手の方々とは、必要以上の敬語等を使わないようにしている。
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